なぜ瞑想をするのか

内側深くにある源泉

Who is inという禅の公案の合宿に参加しました。公案は臨済宗などの禅寺で行われる技法なのだけど、縁あってインドで参加することになりました。この合宿では携帯を持つことすら許されず、他者と話をすることもできずに4日間軟禁された状態でひたすら自分に対して公案を問い続けます。

 

普段、外側にある何かや誰かに向いている意識が内側へと向いたとき、自分の内側に深くに豊かさの源泉があることに初めて気付くことができました。

 

自分の思考、自分の感情、自分の肉体といった当たり前の感覚は自分のものではありませんでした。その感覚を感じている誰かがもう一人内側深くにいる。思考、感情、肉体というこれまで自分が知っているもの全てではない誰かがいる。

 

内側深くの誰かのスペースからは、訳もなく喜びが溢れてくる。いい事があったから喜ぶという外側の状況に関係なく、なんの理由もなくただ喜びが溢れてくるスペース。

 

そして、このスペースからは愛が溢れ出てきます。この人が好きだからという特定の誰かに向けたものでもなく、好きも嫌いもなく、ただ目の前の人がなぜか愛しく思えてしまう。

 

 

外側の状況や人によらず、人は喜びに、愛に生きられるのだと初めて知りました。思考によるジャッジメントもなく、感情も肉体をも超えた何かが自分の中にあります。

 

それはまるで内なる仏陀の様。静けさと喜びと愛。悟りとはきっとこんな世界なのだろうという一瞥を得ることができました。

 

 

生を強烈に生きる

何年か前の話ですが、凍てつく川で水行をした時に仮死状態になったことがあります。その時、死を回避しようと思考がめまぐるしく働きました。

 

この体験を通じて思考とは死を回避する役割を持って一生懸命働いている存在であることを知りました。

 

そして、人というものは幼少期に一人で生きていくことができません。一人で生きていけない弱い存在だから、死の恐怖を感じたこともあったはずです。死の恐怖を回避するために外側にいる親に頼ります。

 

外側の誰かに意識が向くのはなぜか。外側の親に意識を向けてきたことから派生した生き延びるための戦略なんです。

 

しかし、外側に意識が向き続ける限りは死を回避することを優先した“生きるために生きる”ことが続く。

 

内側に意識が向くことは“自分の生を生ききる”ことにつながります。

 

生と死は二つの極にある対極のもの。死を受け入れることが生を強烈に生きることになる。外側の何かや誰かに巻き込まれずに自分の生を生ききることになる。

 

そして、内側深くにいる誰かは肉体ではないのだから、生まれることも死ぬこともない。私にあったのだから、他のみんなにもある。きっと、人は誰しも生まれながらにして神の様な存在なのでしょう。

 

水行での体験と公案での体験がうまく統合されて自分の中に根付いています。なぜ瞑想をした方が良いのかと問われれば、自分の生を強烈に生ききるためだと答えることでしょう。

 

なぜなら、瞑想は自分の内側を見続けるプロセスそのものだからです。