強烈に生きるということ

2016年10月頃の話ですが、凍てつく川で水行をした時に仮死状態になったことがあります。ご存じの方も多いと思いますが、川の水は夏でも冷たいものです。

 

10月も終わりになる頃でしたから、足先を少し川に着けただけでも、冷たいというよりも痛いという感覚になります。

 

この凍てつく川に身体を沈めて、川底で金剛印を組み、結跏趺坐を組むます。身体中には冷たさを超えた痛みが走り、息も止まりそうになります。

 

この時に真っ先にやってきた思考が「心臓が止まる」というものでした。そして、死を回避しようと思考がめまぐるしく働いていることがわかりました。死の恐怖に対面すると、目覚ましい勢いで頭が回転します。

 

この体験を通じて思考とは、死を回避する役割を持って一生懸命に働いてくれている存在であることを知りました。 

なぜ外側に意識が向くのか

 

人はとても無力な状態でこの世に生まれてきますから、幼少期には死の恐怖を感じることもあるはずです。

 

この死の恐怖を回避するためには、外側にいる親を頼ることになります。外側の誰かに意識が向くのは、生き延びるための生存の戦略から派生しているのかもしれません。

 

しかし、外側に意識が向き続ける限りは、死を回避することを優先した "生き延びるために生きる"ことが続くことになります。

 

自分を生ききる

外側に向いている意識が内側へと方向が変わっていくことで、「自分を生ききる」ことへとつながっていきます。

 

生と死は二つの極にある対極のものです。死を受け入れることは、生を強烈に生きることになります。

 

外側の何かや誰かに巻き込まれずに「自分を生ききる」ことになる。

 

そして、内側深くにいる誰かは肉体ではないのだから、生まれることも死ぬこともない。永遠というものが内側にはあります。

 

これが私にあったのだから、他のみんなにもある。人は誰しも生まれながらにして神の様な存在なのでしょう。

 

なぜ瞑想をするのかと問われれば、「自分の生を強烈に生ききるため」だとお答えします。

 

瞑想とは自分の内側を観察し続けることで真我に出会うプロセスのことだからです。