肉体がなくなったとしても

よく稲川なんとかさんとか、あなたの知らないなんちゃらとか、目に見えない世界はとても怖いものだとテレビに洗脳されて強烈な恐怖をインプットされています。

 

けれど、あなたが尊敬する素敵な誰かがこの世を去ったとして、人を怖がらせたり迷惑をかけるようなことをするでしょうか。絶対にしないと言えるだろうし、むしろ手助けしてくれる可能性の方が高いと思います。命が尽きたとしても、肉体がないだけで良い人は良い人のままだし、優しい人は優しい人のまんま。

 

高級車ロールスロイスの車名がゴーストとかファントムなのは、イギリスでは良きものとして捉える文化があるからです。沖縄ではお墓に集まって宴をする風習がありますし、縄文時代には集落の真ん中に墓地がありました。

 

しばらく前に『死役所』というテレビドラマを見ましたが、デート中に交通事故に遭った方や飲み会で急性アルコール中毒になった方たちが、あちらの世界の役所で成仏の手続きを取るという物語でした。

 

大好きな人にボロボロになった姿を最後に見せたくなかったなぁとか、もっと異性と遊んでおけば良かった、あの人は幸せでいてくれるだろうかと案じていたり、肉体がなくなっただけで人は何も変わらないのだと感じながら観ていたことがあります。

 

肉体なき者との出会い

大峯奥駈行のなかで、なくなった方とお話しするという不思議な機会に遭遇したことがあります。二日目の夜遅くに足音が聞こえてきたので、テントから出てみるとヘッドライトを灯した男性の登山者がいました。

 

「どこから来られましたか⁉︎」と尋ねると「どこからって⁉︎あーえっと、本宮から」と答えます。「寒いですねー」と話しかけられ、「夜は少し冷えるかもしれませんね。」と返事をしましたがその日は半袖でもなんとか過ごせる気温でした。なんかおかしい。

 

山で最も貴重となる水場の情報は気になるはずなので伝えてみましたが「まぁ、水はそこらで湧いてますからねぇ」と、いまいち会話が噛み合わないのですぐにテントに戻りました。しばらくすると「おやすみなさい」と声が聞こえたので、「おやすみなさい」と返事をしました。

 

その後食事などの物音一つしません。夜遅くまで歩いてきたから、疲れて寝てしまったのかなぁと思いながら、深く考えることなくその晩は眠りにつきました。 

 

魂を供養する

翌朝4時前には起きていたのですが、よくよく考えればテントを張る音すらしなかったことを思い出しました。もしかしてと思い、日の出の時間に外に出てみると、テントも何もありませんでした。

 

ウェアを着込んでいたし、歩いて身体が暖まって暑いはずなのに「寒いですね」と話しかけられたこと、「本宮から来た」と言われていたこと、外傷などはなさそうだったことから、本宮から吉野に向かう途中に遭難してなくなられた方なのだと思われます。

 

テントを張ろうとしていた場で手を合わせ、般若心経をお唱えしました。行を積んでこられた信頼できるお坊さんにも相談させて頂きました。成仏のために何ができるだろうか。

 

一日を過ごして出てきた結論は、成仏するかどうかは彼のテーマであって、私に出来ることは供養することしかないということ。きっと良い方だったのでしょう。一緒にいるような感覚はありましたが、嫌な感じはしません。彼が目指していたであろう吉野までお連れすることに決めました。

 

道中なんの怪我もなく、むしろジェットコースターのように滑り落ちて杖に顔を打って止まった時も痛みもなく眉間が少し腫れただけでした。ちょうど眉間でしたから、もう1cmズレていたら鼻を骨折したり、目を怪我していたかもしれません。目に見えない存在やご先祖さまやいろいろな方々が助けてくれていることを感じます。 

 

最後は吉野の金峯山寺蔵王堂でお線香をあげ、般若心経などの勤行をして、私にできる供養を終えました。そして更に不思議なことに金峯山寺の前法主である五條覚澄著『霊話 不思議』という本が蔵王堂で販売されていたのでした。

五條覚澄著『霊話 不思議』158ページ

「霊を満足させよ-供養宴-」 から一部抜粋

 

修験者の心は常に供養を第一とすべきである。供養を忘れて万霊の感応は望むべくもない。仏教の本義たる六波羅蜜の布施に相当するものにて、慈悲心の表現である。万霊は常にこの供養を待っているということに留意すべきである。

 

供養を充分に受けておらないところには不平はつきものである。供養を受けておらず、常に不足、不満を感じている霊への供養ほど功徳のあるものはない。心にもない経文をイヤイヤ唱える坊さんのお経よりも、ひとにぎりの飯、一杯の番茶を心から供えてもらう方が満足するものである。言うならば、涙のこもった一遍の念仏が欲しいのである。

 

今から二十年程前から霊の求めによって、毎月一日の夕方、酒肴を整え心ある人たちと共に山下道場で、脳天天神はじめ万霊にそれを供えて後、酒宴を開くことにしている。私はこれを供養宴と名付けている。霊と共に楽しむという意味で、参加者の多いほど、各自のその月の運勢は良いようである。霊の供養は迷える霊のためだけでなく、必ず自分のためであるという事を忘れてはならない。(一部抜粋)

もし、ある日突然自分がなくなったとして、生きている人に話しかけた時、腰を抜かして逃げ去られたらどう思うだろうか。寂しく思わないだろうか。

 

なくなっても肉体がなくなっただけで、あなたはあなたでしかない。何も変わらない。目に見えない世界を怖いものと深く思い込んでいますが、肉体がないだけで、人は人でしかない。

 

この世を去った友人やご先祖様にそっと手を合わせたり、お墓参りをする。もしかすると、そういったことが自分のことを導き守ってくれているのかもしれません。