リンクナチュラルの瞑想ブログ

始めの一歩が一番難しい

修験道の根本道場

修験道の大峯奥駈道で行をすることはライフワークの一つです。あまり知られていない大峯奥駈道ですが、役行者の開山以来1300年の歴史を持つ修験道の根本道場です。

 

和歌山県の熊野から奈良県の吉野までに及ぶ40以上の峰々を1週間程で山上走破する奥駈行は修験道で最も重要視されてきた修行でもあります。吉野から天川を経て、釈迦ヶ岳を超えた深仙のあたりまでが北奥駈。深仙のあたりから玉置山を経て、熊野までが南奥駈と呼ばれています。

 

北と南の中間点である両部分けにも近い深仙は役行者が深い瞑想行をした神の庭とも呼ばれており、修験道本山派にとっての一大聖地です。深仙には仙人が住んでいる場所とされ、地中にはたくさんの経本が埋められているそうです。この深仙から目と鼻の距離にある行場が大日岳です。 

神の庭とも称される深仙の四天岩
神の庭とも称される深仙の四天岩

一歩目を踏み出す

大日岳は急峻な山肌に鉄の鎖がかけられおり、鎖を頼りに山頂までを登りきる行場です。少しでも手を滑らせれば、少しでも足を滑らせれば、急峻な山ですから命が助かるような場所ではありません。そして、この行場に鎖がかけられたのはなんと明治二十四年で、それから鎖は架け替えられていません。そんな行場を命がけで登っていくのです。

 

私が深仙に滞在していた時、たまたま居合わせた登山者の方から大日岳の行場の情報をいただきました。その方によると、大日岳の行場を通った時に修験装束に身を包んだ修験者が来られたそうですが、しばらく悩んだあげく修行をせずに修験者は立ち去っていったという話でした。恰好ばかりで情けない、といぶかっておられましたし、同感だなと思っていました。

 

 

翌日になり大日岳に足を運んで行場を見上げてみましたが、思った以上に巨大な岩盤で、修験者が逃げ出してしまったのは十分に納得できると思い直しました。

大日岳の行場
大日岳の行場
明治二十四年に架けられた鎖
明治二十四年に架けられた鎖

足をかける箇所もない大きな一枚岩があり、さらにこの日は霧が出ていて、岩盤が濡れているというコンディションです。登り始めてしまえば、途中で降りることも難しいだろうし、失敗したらリアルに死を迎える可能性のある行です。正直、かなり怖かったのです。どうしよう、行くか、やめるか。。。

 

しばらく悩んだ末に、よしやるか!と、意を決して行場へと進みました。その行場に自分を放り込んでしまえば、やるしかありませんでした。

 

鎖を信頼して目の前の一歩また一歩を慎重に登っていきます。もし、鎖が切れてしまったらどうしようとか、怖いからと途中で下を見てしまったりしたら、足がすくんでしまって登ることができなかったかもしれません。大丈夫、できる!と信じきってただひたすらに登っていきます。 

 

山頂では大日如来が修行者を見守っている
山頂では大日如来が修行者を見守っている

信じきること

そして、意外なことでしたが、信じきってしまえば命がけの行であっても怖いと思うことなく登りきることができました。結局のところ、スタートを切るまでが怖かったのです。

 

落ちたら命がないとか、足をかける箇所がない一枚岩があるとか、岩盤が濡れていて滑りやすいとか、スタートしない理由はたくさんありました。

 

当然、こういった行だけに限らず、何かを始めようとする時は、躊躇する気持ちが出てくるものです。けれど、その時に大丈夫、大丈夫とマントラのように唱えて、スタートをきってしまうことが大切なのだと身を持って実感しました。 

 

まだまだ経験が足りていないとか、もう少し資金があったらとか、もう少し若かったらなど、物事を躊躇する理由はたくさんありますが、大丈夫、大丈夫とマントラのように唱えてスタートしてしまう位がちょうどいい。思い切ってスタートしてしまえば、あとは目の前のことを一つ一つやるだけです。

 

修行の時代じゃないと聞くことも多いけれど、修験道の様々な行はこの身をもって学ぶことができます。そして、身体で得た体験は感覚として残り、生き方へとつなげていくことができます。山に入り、川に入り、洞窟に入るという自然の中へと入ることが、様々な気付きをもたらしてくれます。

 

やりたいことを始めることに躊躇したら、大丈夫!大丈夫!をマントラのように唱えて、一歩を踏み出してみる。一番難しいのはスタートをきることだから。

 


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無秩序のなかの秩序

無秩序な交通事情

3月中旬に1週間程度カンボジアに滞在してきました。アンコールワットのあるシェムリアップ近郊の村々に125ccのバイクを借りて毎日出かけていましたが、日本にいる時よりも自由と活気に満ちていて運転が楽しくてしかたありませんでした。

 

カンボジアは交通ルールが無いに等しい状態で無秩序そのものです。とにかく先に突っ込んだ車が優先ですし、クラクションがこだまして騒がしかったりします。道路事情も舗装されていない土のままの道路が普通にありますし、アスファルトで舗装されていても穴ぼこだらけです。 

 

唯一の例外として、6号線という4車線分ある幹線道路だけは、アスファルトで舗装されていて穴ぼこ一つなく、きちっと整備されています。6号線はよく整備された道路ですが、日本の道路とはっきりした違いがあります。 

シェムリアップ郊外の舗装されていない道路
シェムリアップ郊外の舗装されていない道路

安全など存在しない

それは車線がないこと。日本であれば片道2車線ずつになっているのが当たり前のことなので、車線が無いという状況を想像することができないかもしれません。けれど、シェムリアップ近郊の道路には車線がありません。4台分の車が通れる横幅があるだけです。

 

その時の流れによって車線が決まるということです。ある瞬間は片道2車線ずつになり、またある瞬間は片道1車線と片道3車線になる。はたまたある時には片道4車線になる瞬間もあります。

 

カンボジアは日本と反対で右側通行です。右から2番目の車線を走っていたとしても、ある瞬間に流れが変わって、気が付けば反対車線から車が突っ込んできたり、一番右側の車線を走っていれば安全かと思えば、突然バイクが逆走してきたりします。

 

安全な車線がどこにも存在していません。その瞬間、瞬間に自分がどこに位置するかを判断し続けなければなりません。日本の道路では考えられない無秩序でカオスな状況があります。

 

無秩序でカオスな状況ですが、ルールがキッチリしている日本よりも4車線をフルに活用できるカンボジアで運転している方が自由があってはるかに楽しいのです。

 

さらに街の中心部の4-5か所を除いて信号機すらありません。信号がないのだから、青がGO、赤がSTOPなんてルールは存在していません。ただ、その瞬間の流れを感じて動くことがすべてです。

 

信号のないカオスな状況の交差点
信号のないカオスな状況の交差点

無秩序の中の秩序

 しかし、運転を続けているとその無秩序の中に秩序が存在していることに気が付きます。何となく左からくる車が優先だとか、いま直進の流れに変わったなど、その時々で発生する秩序があるのです。そして、この車幅なら先に突っ込めば進める、ここは相手の方が先だなど相手との間合いを感じ合って進む。

 

日本みたいにキチッとしたルールがないから、判断するのは国や警察などの組織ではなくて、あくまで個人の感覚に委ねられている。個人がその瞬間、瞬間に感じて動く。そして、無秩序の中になんとなく発生している秩序のおかげなのか、実際にカンボジアでの事故は少なく、事故に遭うのは外国人ばかりだそうです。

 

あれが危ないんじゃないか、こうしなきゃいけないんじゃないかとルールによって細かく縛らなくても、感じることさえできれば、自然発生的に秩序が発生してうまく流れていく。ルールによって細かく縛られていると、間合いを感じる能力は育たずに、ルールで育ってきた外国人ばかりが事故を起こしているのかもしれません。

 

  

感じて動き続ける

カンボジアに着いたばかりの頃は逆走するバイクを見てはクレイジーで危険な奴らだと呆れていたけれど、カンボジアから離れる時には右手にアクセルを握り、左手にクラクションを持ち、クラクションを鳴らしながら、ためらいなく逆走していました。お互いに感じ合ってさえいれば、危ない場面などなかったし、無秩序でカオスな状況というのは何より自由で楽しい。

 

決められた秩序があってマニュアルに沿う、キチッとする、ちゃんと生きることばかりに縛られていくよりも、自分の感覚を信頼して、感じて動いていく。

 

これからの激動の時代、カンボジアの車線のように一瞬で状況が変わり、安全などなくなっていくかもしれません。一瞬、一瞬の流れを読み取って自分がどこに位置するかを決めていく。

 

そして、安全でいることを放棄したとき、そのカオスで無秩序な状況が何よりも自由で楽しいことだと知る機会になるのかもしれません。 

 

 


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ダンスが瞑想になるとき

思わぬ反響

インドにいた時は踊れるスペースと音楽があったので時々踊っていましたが、思いがけず日々たくさんの人たちにダンスを賞賛されていました。

 

God dancer !

Amazing dance!

Meditative dancer!

I like your dance!

 

一人でぶらぶら歩いていると毎日のように見知らぬ人から話しかけられて、あなたのダンスが好きだとわざわざ伝えてくれました。自分の踊りのファンになってくれる人がたくさんいました。

 

私のダンスは凄いんですよ~。ということではなくて、実際自分がどうやって踊っているのか知らないし、ダンスなど習ったことないし、そもそも私はダンサーですらない。

 

 

音と一つになる

これからシェアしたいと思っていることは、瞑想会が基盤にあって、異性と一つになること、山などの自然と一つになること、音と一つになることです。

 

音には独自のバイブレーションがあります。もちろん自分にもバイブレーションがある。この音と自分のバイブレーションが共振共鳴した時にダンスは自然と起こってきます。

 

だから私にはダンスをしている感覚などなくて、ただ音と一つになっている感覚だけがあります。音と一つになっていれば、身体は自発的に動き出し、結果としてそれがダンスになってくる。ただそれだけのことです。

 

その状態はある種のオーガズムでもあり、どうやって?と考えることなどなく自発的に身体が動いている。ただ自発的に動いている身体を感じているだけです。だから、自分が踊っているというよりも、自分の身体が勝手に踊っているのを見ている感覚に近い。 

 

 

音に合わせるのではなく

けれど、フリーダンスの会などに行くと多くの人が音楽が鳴ると音楽に合わせて身体を動かし始める。それがいいとかわるいとかではなくて、音に合わせていることに気が付くことが出来れば、新しい領域が開かれてくるはずなんです。

 

その為に必要なことは音とつながる瞬間を音を感じながら待つことなんです。音とつながった瞬間から身体には動きが起こります。ただ待つことができずに自分から動き始めてしまうのがマインドです。ダンスが起こるのではなく、自分がダンスをしている。この状態が音に合わせているということです。ここに気付くことができるかどうか。

 

異性とするセックスだって男のバイブレーションと女のバイブレーションが共振共鳴して起こってくるセックスと、異性に合わせてするセックスでは明らかに境地が異なる。

 

本当に共振共鳴が起こってオーガズミックなセックスをしている時にどうやって動こうかなどと考えることなどできなくなり、身体が自発的に動いているはずで、ダンスにも同じことが起こってきます。だから音とともに在れば、踊り方など知らなくていい。 

 

 

内側から湧き出る魂の踊り

音楽に合わせて踊っていることを否定するつもりはないけれど、より瞑想的になればダンスに新しい領域が開かれてきます。

 

それは、ベリーダンスで習得してきた動き、フラダンスで習得してきた動き、舞踏で習得してきた動きとは異なるものが出てくることも多いはずで、外側から習得してきたものとは異なる内側から湧き出る自由な動き。

 

そして、内側から湧き出る動きには人によって個性があり、正しいとか間違っているということがない。これが美しくてこれが美しくない、これが難易度が高くてこれは難易度が低いということもなく、それぞれの魂が現れて、全ての個人が独創的な動きをする。だから、人の踊りを気にすることには意味がなく、ただ自分自身であることが問われてくる。

 

世界中のシャーマニックな儀式、ご神事において必ずと言っていいほど踊りが用いられているのは、そのような瞑想的な踊りの中で神なる何かを見出すことができるからなのでしょう。

 

それぞれの内側から湧き出てくるもの。その踊りを通じて瞑想的な境地になり、神を見出すようなそんな踊りをダンス瞑想会を通じて伝えていきたい。

 

リンクナチュラルでは会場が確保でき次第、ダンス瞑想会~音とひとつになる~を開催する予定です。


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旋回という強烈な瞑想技法

旋回で宇宙と一つになる

旋回というフィギアスケーターのようにただクルクルと回り続けるという一風変わった瞑想の技法があります。ワーリングと呼ばれることもあるこの技法は、シンプルながらもただ回るだけで悟りを得た人物もいる強力な技法です。そして、個人的には一番好きな瞑想の技法でもあります。

 

旋回はトルコのセマーなど中東で盛んに行われており、インド、中国、日本など世界の至る所で用いられている技法です。残念なことに日本ではとってもマイナーですが、旋回に一度ハマってしまえば、体力の続く限りいつまでも回り続けていたいと思うほど病みつきになるほど魅力ある瞑想技法です。

 

旋回によって自分が溶け去り、宇宙と一つになる。激しく旋回していながら、台風の静けさのような中心を見出すなど、様々なことが語られる旋回。私の場合は、ただ回っているだけで、気持ちよくなってしまい、気が付けば何も考えられなくなる、一種のオーガズムに包まれながら旋回をしている感じです。

 

右回転とエネルギー

旋回をすることは生命力を高めることになります。マクロの観点では地球は公転していますし、ミクロの観点では物質を構成する原子も原子核の周りを電子が回転して成り立っています。万物は常に回転しているんです。

 

そして、重要なことは右回転であるということ。右回転は生命力を生み出す回転です。旋回は主に右回転で行います。

 

フリーエネルギーの存在を知っている人は多いと思いますが、私が理解している限りでは原理自体は単純なものです。右回転でエネルギーを発生させ、発生したエネルギーを左回転で集めて電気として活用するという仕組みです。また、マクロビにおいても調理する際に右回りでかき混ぜたり、炒めたりすることで、料理の生命力を高めています。

 

 

右回転でエネルギーが発生し、生命力が高まるということは、おそらく宇宙の摂理なのでしょう。これをフリーエネルギーでも、マクロビの調理法でもなく、自分自身の身体を使って右回転させていくのが旋回の技法です。

 

 

目が回らなくなるには

旋回は非常に強力で素晴らしい瞑想の技法ですが、目が回りそうというイメージがあります。けれど、目が回らない範疇から旋回を始めていけば、難しいものではありません。

 

旋回は目の使い方と足の裏の使い方にポイントがあります。目が回るというくらいですから、目の使い方がわかれば目が回りにくくなります。初めて旋回をする方は両手を広げて回り、手のひらの一点だけに視点をフォーカスして回れば目が回ることはないでしょう。

 

慣れてくれば、回り続ける景色を見るでもなく、見ないでもない。中空を見ているという状態を掴んでいきます。中空を見る感覚を掴めれば目が回ることはなくなっていくでしょう。

 

そして、ただ立つということがある程度できるようになれば、おのずと足の裏への意識が強くなり、足の裏を感じている限り倒れることはあり得ません。しかし、ただ立つとかただ歩くということはとても奥が深く私も探求している最中です。

 

旋回が好きだという気持ちでマイナージャンルの旋回について書きましたが、旋回に興味を持ってくれる人もいるだろうし、目の使い方や正中線を含めた旋回での5つのコツを機会をみてブログに書きたいと思います。

 


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なぜ瞑想をするのか

内側深くにある源泉

Who is inという禅の公案の合宿に参加しました。公案は臨済宗などの禅寺で行われる技法なのだけど、縁あってインドで参加することになりました。この合宿では携帯を持つことすら許されず、他者と話をすることもできずに4日間軟禁された状態でひたすら自分に対して公案を問い続けます。

 

普段、外側にある何かや誰かに向いている意識が内側へと向いたとき、自分の内側に深くに豊かさの源泉があることに初めて気付くことができました。

 

自分の思考、自分の感情、自分の肉体といった当たり前の感覚は自分のものではありませんでした。その感覚を感じている誰かがもう一人内側深くにいる。思考、感情、肉体というこれまで自分が知っているもの全てではない誰かがいる。

 

内側深くの誰かのスペースからは、訳もなく喜びが溢れてくる。いい事があったから喜ぶという外側の状況に関係なく、なんの理由もなくただ喜びが溢れてくるスペース。

 

そして、このスペースからは愛が溢れ出てきます。この人が好きだからという特定の誰かに向けたものでもなく、好きも嫌いもなく、ただ目の前の人がなぜか愛しく思えてしまう。

 

 

外側の状況や人によらず、人は喜びに、愛に生きられるのだと初めて知りました。思考によるジャッジメントもなく、感情も肉体をも超えた何かが自分の中にあります。

 

それはまるで内なる仏陀の様。静けさと喜びと愛。悟りとはきっとこんな世界なのだろうという一瞥を得ることができました。

 

 

生を強烈に生きる

何年か前の話ですが、凍てつく川で水行をした時に仮死状態になったことがあります。その時、死を回避しようと思考がめまぐるしく働きました。

 

この体験を通じて思考とは死を回避する役割を持って一生懸命働いている存在であることを知りました。

 

そして、人というものは幼少期に一人で生きていくことができません。一人で生きていけない弱い存在だから、死の恐怖を感じたこともあったはずです。死の恐怖を回避するために外側にいる親に頼ります。

 

外側の誰かに意識が向くのはなぜか。外側の親に意識を向けてきたことから派生した生き延びるための戦略なんです。

 

しかし、外側に意識が向き続ける限りは死を回避することを優先した“生きるために生きる”ことが続く。

 

内側に意識が向くことは“自分の生を生ききる”ことにつながります。

 

生と死は二つの極にある対極のもの。死を受け入れることが生を強烈に生きることになる。外側の何かや誰かに巻き込まれずに自分の生を生ききることになる。

 

そして、内側深くにいる誰かは肉体ではないのだから、生まれることも死ぬこともない。私にあったのだから、他のみんなにもある。きっと、人は誰しも生まれながらにして神の様な存在なのでしょう。

 

水行での体験と公案での体験がうまく統合されて自分の中に根付いています。なぜ瞑想をした方が良いのかと問われれば、自分の生を強烈に生ききるためだと答えることでしょう。

 

なぜなら、瞑想は自分の内側を見続けるプロセスそのものだからです。 

 


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2016年の振り返り

リンクナチュラルのスタート

2016年はリンクナチュラルの活動をスタートさせた年となりました。正直なところ、なぜ自分がキャンドルを作っているのか、なぜ自分が瞑想会を開催しているのか、いまだに自分でもよくわからないのですが、不思議なご縁の積み重ねと運命の偶然で活動を始めることになりました。

 

 

リンクナチュラルとしての活動は2016123日のキャンドル瞑想会から始まりました。以前からハワイ在住の舞踏家那須シズノさんのダンスリトリートのお手伝いをしていましたので、会場の装飾についてのイメージだけはありました。

 

しかし、どうやって告知したらいいのか?どうやって瞑想をガイドしたらいいのか?自分が参加したことはあっても、瞑想会を誰かに提供したことはなく、すべてが手さぐりの状態から瞑想会は始まりました。

 

 

瞑想の状態のままで

最初のうちはいくつかの失敗もありました。告知がうまくできずに来られた参加者がおひとり。自分と参加者の二人だけで瞑想したこともあります。しかし、後から振り返れば参加者がおひとりだった瞑想会がターニングポイントになったのだから面白いものです。

 

その瞑想会の日は朝から力が抜けていたことを覚えています。瞑想会が始まっても力が抜けたままで、結局はくつろいだままの瞑想の状態のままで瞑想会が終わっていました。

 

話す言葉が勝手に出てきました。ただくつろいでお任せしておけば良いんだなぁと思いました。話すのではなくて、話している。自分が伝えるという思考によって、こんな当たり前のことを見過ごしていたことに気付くことができました。

 

いろんな失敗を重ねながらも、自分だったらこんな瞑想会に参加したいなぁと思える瞑想会になっていることがなにより嬉しい。今日の瞑想会も良かったなぁ、次もやってくれないかなと、まるで参加者になったかのように自分の瞑想会のファンになっている自分がいます。

 

たくさんのキャンドルを惜しみなく使って、人と坐れる瞑想会はこの機会しかありません。だから、たった一人でも参加してくれればまた瞑想会を開ける。そんな気持ちがあります。

 

回を重ねるごとに参加してくださる方が増えてくださり、最近では満席が続くようになってきました。有り難いことです。

 

 

作り手のよろこび

また、キャンドル作りもまだまだ改良を重ねていますが、徐々に良い物が生み出されるようになりました。自然のままのキャンドルは、コントロールしやすい添加物を使いませんので、作りづらいのですが、それでも理解できることは日々増えています。

 

このキャンドルのことを理解できた分だけ、また良い物が生み出されていることを感じます。キャンドルの販売も徐々に注文が増えるようになり、最近は作るペースを超えて注文が入るようになってきました。品切れの状態になることも珍しくありません。

 

開設したホームページを通じて、面識もない方々がキャンドルの世界観に興味を持ってくれて、注文をくださるようになったことも嬉しいことでした。

 

 

そして、このキャンドルには力がありますと言ってくださり、いつもリトリートやワークショップでキャンドルを使ってくださる那須シズノさん。

 

ダンス公演でもキャンドルを使ってくださいました。ダンスというジャンルを超えた祈りの要素も含む公演で感じた踊り手の方々の圧倒的な熱量。公演の一瞬一瞬にすべてを賭けている神々しいまでの踊り手の方々の手にはキャンドルが持たれていました。

 

踊り手の方々の圧倒的な存在とキャンドルの織り成す光景には思わず涙が溢れ出てきました。キャンドルを作ってきて良かった、そのように思わせてくれました。

 

立ち上げたばかりにもかかわらず、たくさん方に想いを寄せていただき、良い経験を積ませていただいた一年となりました。

 

 

2017年に向けて

リンクナチュラルの活動は新しく始めたことばかりで、今年はゼロからイチを作る一年になりました。少しずつではありますが、基礎が出来上がりつつあるリンクナチュラルの活動。

 

たくさんの方と共に坐ることができ、キャンドルを灯していただくことができました。来年もひとつ、ひとつのことを丁寧にとり行いながら活動を続けてまいります。来年もどうぞリンクナチュラルをよろしくお願いいたします。

 

 


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キャンドル瞑想会~音と灯りのなかで~

エネルギーの渦

12月23日(祝)にキャンドル瞑想会~音と灯りのなかで~を開催しました。今年から始めた瞑想会も今回で6度目の開催。満員御礼となる参加者13名とスタッフ2名でしたハミングを用いたナーダブラーマ瞑想が強烈で、共鳴しあったハミングが会場をこだまして、ハミングの巨大な波が押し寄せてくるような、とてつもないエネルギーの場と化していました。

そして、ハミングの余韻も冷めやらぬ中で加藤あいさんのクリスタルボウル演奏が始まる。細胞一つ一つにまで倍音が響き渡るような感覚で、身体に力を入れることもできない脱力したままで、クリスタルボウルの倍音に包まれていく心地の良さ。

二日ほど経っても、身体に、細胞に音の振動がこだましている感覚。オーガズム、ノーマインド、、、どうやって言葉にしていいのかわからない。あの会場では何かが起こっていた。そして、自分自身にも何かが起こり始めていることを感じています。

 

今回の瞑想会も参加者のみなさんとクリスタルボウル奏者の加藤あいさんだから作れた場。主催でありながら、素晴らしい瞑想会だったなと参加できたことを嬉しく思いました。

 

 

 

そして、いつも時間がとれないでいた参加者とのコミュニケーションの時間も持つことができたことも大きかったです。

 

幾人かの参加者とお話しして、どういう想いで来てくれているのか知ることもできたし、この瞑想会を必要としてくれている人たちがいるということも理解することができました。

 

たまたまの流れで瞑想会という場を持つことになっただけで、先生とか先達を務めているつもりはありません。自分自身が参加者の一人として、キャンドル瞑想会が好きでいる。そんなスタンスでこれからも瞑想会を続けていきたいと思います。

 


大峯奥駈道との出会い

大峯奥駈道との偶然の出会い

”自然とつながる"リンクナチュラルという名称で活動する、きっかけを与えてくれたのが奥駈(おくがけ)です。そして、奥駈との出会いはまったくの偶然でした。パートナーと高千穂への旅行を計画していたある夏のことです。

 

天河弁財天大社(奈良県吉野郡天川村)への奉納舞を終えたばかりのパートナーが、どうしても私を天川村に連れて行きたいと言い張り、半ば強引に旅先を変更させられたのがきっかけでした。

 

しぶしぶ高千穂から旅先を変更し、夏休みに訪れた天川村。夜の洞川温泉郷を散歩に出かけて、ふらりと立ち寄ったお土産屋さん。偶然にもこのお土産屋さんに一人の修験者がいました。女人禁制をかたくなに守る大峰山寺にお勤めする方で、この修験者から大峯奥駈道の存在を教わりました。

 

大峯奥駈道は吉野から熊野までのおよそ一週間を要す山岳修行の道。一週間もの休みは取れないので、修行などできませんと修験者に告げて、その時はお土産屋さんを去ったのです。

 

そして、次の月に迎えたシルバーウィーク。この年のシルバーウィークは偶然にもプラチナウィークとも呼ばれた超大型連休になっていました。労せず一週間の休みを手にすることになります。ちなみに、次にプラチナウィークを迎えるのは11年後だそうです。

 

そうして、行くか、行かないかを考えることもなく、気が付けば奥駈への準備を始めている自分がいました。山岳修行といっても登山の経験もない、虫も動物も怖いもかかわらず、、、です。なぜ準備をし始めたのか、自分でもわかりません。

 

もし、高千穂へ旅行に行っていたならば、リンクナチュラルはなかったかもしれません。修験者が偶然にお土産屋にいなかったならば、プラチナウィークの大型連休がなかったならば、奥駈に行くことはなかったでしょう。大峯奥駈道との出会いは偶然そのものでした。

 

 

 

いざ奥駈へ

和歌山県田辺市の熊野本宮大社ほとりにある熊野川。熊野本宮大社に参拝し、禊の意味を込めて橋を使わず熊野川を徒歩で横断して始まった奥駈。

 

スタート時のリュックの重量は約18Kgあります。その日の熊野川は水深が膝上15cmほどあり、重量のあるリュックを背負ってバランスをとるのは大変でふらつきながらの横断。最後の一歩の水深が予想以上に深く、よろめきながらも、なんとか横断。

 

ホッとしたのもつかの間、見上げてみればどこをどう見ても山があるだけで登山道などありませんでした。登山道からズレた場所から川を横断していた様です。

 

選択肢はただ一つ。登山道でもなんでもない山の中に身一つで分け入っていくこと。道のない急斜面の山をかき分け、樹木につかまりよじ登り、およそ15分でようやく登山道に合流できました。

 

登山道に合流したものの、人の乏しい大峯奥駈道。初日は熊野本宮大社を出てから先は誰一人として出会うことはありませんでした。出会うのはマムシらしき蛇や動物だけでした。

 

二日目は熊野三山の奥の院として有名な玉置神社(十津川村)には数人の参拝客がいましたが、そこから先は、ほとんど人に会うことはありません。僅かに出会った方からは「この先に熊がおるでな。熊と目が合っちゃったんだよ。」と、驚きの情報をもらいました。

 

この先というのは一本道。この一本道の先には熊がいるという事実。進めば熊がいる、だからといって引き返すわけにもいきません。

 

熊除けの鈴の音が途切れることがないよう、必要以上に叩いて鳴らし、鳴らしまくって相当な警戒心をもって歩きました。

 

「ガサガサッ」と動物の足音が聞こえるたびに緊張がはしります。鈴の音に反応した鹿が走り去っていくのは目撃してひと安心。その後も動物の気配を感じることはありましたが、幸いにも熊に遭遇することはありませんでした。

 

近畿最高峰である釈迦ヶ岳の手前では香川県から来ていた三人組のグループと出会いました。「山に登ったことないの!?最初からこんなとこに来るなんて面白い人だね。」と、笑われながらも山で一番の貴重品である水を1Lも分けてくれました。

 

分けていただいた水は、釈迦ヶ岳の巨大な岩の割れ目から湧出している香精水。万病が治癒するとの伝承がある湧水です。かつては、奥駈道中で唯一里に持ち帰ることが許されていた湧水だそうです。

 

もしかしたら、死ぬんじゃないかと怖れる気持ちばかりで入った山岳道。山に入れば火を起こしてくれ、コーヒーを作ってくれた人もいました。貴重な水を分けてくれる温かい人たちがいました。

 

そして、道に迷えばルートを外れていることを直観が教えてくれました。足を滑らせ滑落しても不思議なことに怪我一つ負いませんでした。不思議な何かに守られているという安心感がありました。街灯などあるはずもない真っ暗闇の山の中をヘッドライトを照らして歩いても、怖さはなどなく、ただひたすらに歩き続けていました。

 

トータルで6日間かかりましたが、無事に奈良県吉野にある金峯山寺に辿り着き、修験道で最も重要視されていた奥駈の行を終えることができました。 

 

 

超自然的な力を知る

東京に戻るといつもの出勤風景がいつもと違って見えました。すれ違う出勤中のサラリーマンたちは、生気のない目が死んだ人々の行列に見えました。畑で栽培されている野菜に元気がなく見えました。一方、道端に生えている雑草が生き生きとしているのが見えました。

 

自然との距離が近くなっていたのか、雑草たちや街路樹が笑っているように見えます。超自然的な力を感じることができ、自分の身体に気が溢れていることを感じるだけでなく、実際に人の身体に作用していくこともできました。(昔の修験者は治療者でもあったそうです)

 

このような現象は一ヶ月も経った頃には元に戻っていましたが、自然の中には超自然的な力があること、普段の生活は自然との距離が離れすぎていることを知りました。リンクナチュラル(="自然とつながる")の原点は大峯奥駈道にあります。


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禅的商売

突き動かす何かがある

MeditationCandle~奥駈~はティーライトタイプのキャンドル5個で5,000円というけっして安くはない値段を設定しています。ずいぶんとお高いんですねと言われることもしばしばあります。

 

それでも、利益はほとんどありません。原価もまたお高いからです。キャンドルに使う素材がパラフィン(石油由来の蝋)であれば一般的に1,000円あれば1Kg程度手に入ります。これを日本ミツバチの蜜蝋にすると、一般的に1,000円で手に入るのは30g-90g程度になります。ヒノキの精油もおおよそ精油の瓶一本(4ml-5ml)程度使っています。そもそもの原価がお高いのです。

 

それでも、工場の中でオートメーションに大量生産して拡販できれば利益を出すこともできるかもしれません。けれど、精麻(乾燥させた大麻の茎で、THCが除去された適法なもの)を紡いで糸にするところから手作業でキャンドルを作っているので、そんなにたくさん作ることもまた難しいキャンドルです。

 

仮に割に合うのか、合わないのかと問われることがあれば、割に合わないと即答する自信はあります。それでもキャンドルを製作しているということは自分の中にある何かが突き動かされているからなのだと思います。

 

世界観の表現

自然崇拝の世界に身を置き、セクシャリティの世界に身を置き、瞑想の世界に身を置き、キャンドルの世界に身を置く自分を通してしか出てこなかったであろうオリジナルな世界観が自分の中にあります。この世界観の一つの表現としてMeditation Candle~奥駈~が生まれてきてくれました。

 

この世界観を世に広めようとか、売り上げを伸ばして大きな組織を作りたいとう気持ちもほとんどありません。そもそも論で言えば、買って欲しいという気持ちもあまり強くありません。
ただ、これが自分の世界観だから、淡々と表現する活動をしているだけ。排泄や呼吸と同じで、どうやって入れるかという意識は少なくて、ただ内側にあるものを表に出していくこと。それを淡々とやっているかんじです。
 

共鳴し合う世界観

世の中には売り手と買い手がいます。買い手は購買権を持っていて、一種の小さな権力者になることがあります。お客様は神様ですとはよく聞く言葉。しかし、私には売り手と買い手が分離しているように見えてしまうという価値観を持っています。
キャンドル瞑想会であったり、キャンドルの制作は自分の世界観の表現でもありますが、生み出すことそのものに意識があたっている。
それなのに縁あって受け取ってくださる方達がいたりする。変わった人もいるものだなぁと心底思います。こんなオリジナルな世界観なのに共鳴してくれる変わった方も世の中にいるのです。
SNSに掲載してくださる方、紹介をくださる方、感想を寄せてくださる方、応援や協力してくれる方、活動に興味を持ってくれる方がたくさんいてくれる。自分が思っている以上に活動も拡がっていく。
労力はたくさんかかるし、失敗も数多いけれど、キャンドルを作ってきて、瞑想会をやってきてよかったなぁと、つくづく思います。

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キャンドルの個性

2016年6月4日(土)から6月5日(日)に箱根で開催されたハワイ島在住の舞踏家ニーシャ( 那須シズノさん)のダンスリトリートにてMeditation Candle~奥駈~を提供させていただきました。
キャンドルを灯して行ったニーシャオリジナルの弥勒瞑想は神秘的で素敵な時間になりました。リトリートや瞑想会などで制作したキャンドルを灯す機会が増えてきたのですが、毎回キャンドルを提供するたびに悩ましく思うことがあります。

それは、キャンドルの燃焼の仕方を均一にコントロールできないことです。そして、今回のリトリートでキャンドルを眺めていた時に気付くことがありました。

 

 

キャンドルは物ではなく生命

それは、手作りしたキャンドル一つ一つには魂があり、それぞれのキャンドルに個性があるということ。そもそも均一化するものではなかったということに気が付きました。キャンドルもまた物ではなくて、一つの個性を持った生命なのかもしれません。

 

風が吹いてもいないのに激しく揺らめくキャンドルもあれば、揺らぎなく一直線に直立した炎のキャンドル、控えめな炎のキャンドルもあったりとそれぞれに個性があります。

 

私は不思議に思っていたのです。

 

同じ素材を同じ条件で、同じ工程で、同じ芯の長さで、同じ灯し方をしているのになぜ炎が均一化しないのだろうと。

 

もともと加工がしやすくて、安定して燃焼するパラフィンなどの石油系のキャンドルであればこのような問題を感じることがなかったかもしれません。加工のしにくい蜜蝋には添加物を用いて均一化を図ることもしていません。

 

添加物を用いれば均一化が図りやすくなるのは確かですが、一つ一つのキャンドルに個性があってもいいのかもしれません。そう思えたら、沸き立つ炎がいい、揺らめかない炎、炎が控えめなものが良くないのではなく、それぞれのキャンドルが個性的で美しいものとして捉えることができます。

 

そう、キャンドルもまた生き物なのです。


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