無為自然や無為の為という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「道は常に無為にして、而(しか)も為さざる無し」何事も為さずにいて、しかも為しているという意味になります。これは老子の言葉です。
何事も為さずにいて為しているとは、矛盾があり理解不能な言葉のように思えます。無為に時間を過ごすとか、無為無策という言葉もあるくらいですから、無為という言葉にネガティブなニュアンスを感じる方もいるかもしれません。
しかし、実際は老子が言うように無為によって、為さざるを無しなのです。
空飛ぶ皇帝と呼ばれた伝説のバレエダンサーであるニジンスキーは自分が飛ぼうとした時には、理想的なジャンプが一度もできなかったと語っています。発明王エジソンは空間に浮かんでいる思考を捉えることでひらめきが起こり、発明につなげていたと語っています。
いずれも自分で考えて、自分が為そうとして為したものではないということです。彼らは為そうとしないことで、自分の実力以上のことが為されることを知っているのです。
為そうとする自分がいなくなった時、自動的に為している自分がいる。する者がなく、行為だけがある。これが、無為の為の境地です。
する者がなく、行為だけがある。この無為の為の状態は、自らの中にある最高位のものが、自らの中にある最も低位なものを捉える現象とも言われています。
この現象を人によって宇宙とか、神とか、存在とか、サムシンググレートとの一体化と呼んでいるのだと思います。"する者"が消えゆく時に、高次な何かと同調し一体化して、自分を超えた何かが起こってくる。
無為の為はどうしたら起こるのか?
無為の為は起こることであって、起こそうとするものではありません。起こそうとすることが既に作為的であり、無為ではなくなってしまいます。
ポイントがあるとするならば、コントロールしようとする者が消え去ることです。しかし、する者を消そうとする努力がコントロールすることになります。
無為であることは、する者がいない状態です。これは、何もしないということでもありません。するでも、しないでもない。どちらでもない。ただ見守り、ただ待つこと。
待つだけなら簡単にできると思われるかもしれません。でも、人はただ何かをすることができません。有能なマッサージ師に尋ねてみるとわかります。ただ触れることがいかに難しいか。有能な歌手に尋ねてみても同じです。ただ歌うことがいかに難しいか。
結果や評判をコントロールしたいという気持ちが少しでもあれば、上手くやろうとする微妙な力が働いてしまい、ただ触れたり、歌ったりすることができなくなります。
マインドは状況や結果をコントロールしたくて、何かを為そうとせずにはいられないものです。いかにして、コントロールを手放すか。結果に対して手放しで状況を見守っていること。起こっても、起こらなくてもどちらでもいい。特に起こらなくてもいいかなという受け入れる心境になった時、無為の為が起き易くなることを感じます。
ただ待つこと、見守る者でいることは、存在(サムシンググレートなど)への信頼がなければできません。待てないのは自分の力だけを信頼しているからです。
常に何かを為そうとしている自分を見守る。状況を都合のいいようにコントロールしようとする自分を見つめること。この待つことの中に瞑想があります。無為の為が起こるには、為そうとする自分を見守ることです。